日記、特に本としての日記が流行っている、というのを目にしたことがあります。
この点についても興味深いですが、まずは「読む」ということについて考えてみたいと思います。
日記の中に「他人」がいる
たとえば人から「私は日記をつけています」と聞いたとき、思い浮かぶ姿としては、その人が日記を書いている瞬間ではないでしょうか。日記においては「書く」という行為が着目されがちです。
しかし、「読む」という行為も、日記においては重要なパートを占めていると言っていいでしょう。
3年日記などの連用日記が好まれる理由の一つは、昔の自分が何を書いたかが自然と読めるからです。他人が書いた日記本を読むという行為の延長線上には、自分の日記を読む行為もあるはずです。
そもそも、自分の書いた日記も次第に「他人」の日記となっていきます。
たとえば、私が書いた10年前の日記があります。それを読み返しても、大部分は忘れており、書いてある内容から思い出すこともあります。
ただ、果たして思い出した記憶が、本当にその書かれた内容に該当しているのかはわかりません。想像している、という意味では、他人が書いた日記から想像する日常と、あまり変わりはないかもしれません。
日記の中に「他人」がいるのです。
笑うためには、距離がいる
自分にとって笑えない過去、というのはありますよね。そもそも笑うためには、一種の距離が必要です。
初めて人前でライブをする芸人さんが、もし親しい友人だったとしたら、笑う前に心配してしまいます。もしライブを見ているうちに「大丈夫だな」と思ったら、心配せずに笑えるかもしれません。そこには良かったと思うと同時に、寂しさも混じっていそうです。
日記を読み返すと、つらかったはずの過去も笑い飛ばせることがあります。それは、時間によって過去の自分と今の自分のあいだに距離が空いたからかもしれません。過去の自分と今の自分はちがうのだ、という寂しさとともに、あなたは笑うことができるかもしれません。
そもそも笑うとき、あなたは「誰か」と一緒に笑っているはずです。
読むことは、今に返ってくる
日記には「他人」がすでにいます。
日記を書くことは過去を重視していそうですが、大事に取っておきながらも笑い飛ばす、という二面性も持っているのかもしれません。
大事にとっておくのか、笑い飛ばすのか、その時のあなたに委ねられています。もちろん、何事についてもそうでしょう。
ですが、それは「読む」ことで委ねられるものです。読むことで過去の自分に対して他人の属性を付与できます。
そして、日記には、自分を形作ってきたはずの過去の自分を、自分自身で仕分けるという特殊性があります。
過去の自分から地続きの今の自分が、過去をいじるとき、それはまた今の自分に返ってくるでしょう。
だから日記を読むということは、過去でもなく、未来でもなく、今に影響を及ぼす行為なのかもしれません。
関連
Day8 本には「自分」が、日記には「他人」がいる(外部リンク:note)
日記を読み返す期間の違いで何が変わるの?(ログハピ!アーカイブ)
日記を読み返し続けることで一つ上の視点を持てる(ログハピ!アーカイブ)
長らく休止していましたが、少しずつ再開していきたいと思っています。

