心はどうやって見つければいいのでしょうか?
『心はどこに消えた?』を読んでいます。
序文だけでもおもしろいのですが、その中でこんな言葉があります。
心とはごくごく個人的で、内面的で、プライベートなものだ。それはあらゆるものを否定した後にそれでも残されるものなのだ。心は旅の始まりではなく、終わりに見つかる。
『心はどこへ消えた? (文春e-book)』東畑 開人著
あらゆるものを否定した後にそれでも残されるもの。心は旅の終わりに見つかる。
そのことについて今回は考えてみたいと思います。
例えば引用の中では心は「あらゆるものを否定した後に残されるものなのだ」としています。
これだけではわかりにくいので、以下のような例も引用します。
そう、心は否定の後に現れる。
体のせいでもなく、物のせいでもない。お金がないせいでもなく、組織が悪いともいえない。社会だけのせいにも、環境だけのせいにもできそうにない。そういうときに、心を問題にせざるをえなくなる。
あるいは、こうも言える。みんなが言っていることに納得がいかない。親にも同僚にもパートナーにもわかってもらえない。きわめて個別の、自分にしかわからない事情がある。そういう他者とは異なる自分だけの孤独に、心が宿る。
『心はどこへ消えた? (文春e-book)』東畑 開人著
「あれもちがう、これもちがう、それもちがう」
「もう帰ろう」
青い鳥が見つかるのは旅の後であるように、自分のことが分かるのは旅の後ではないのでしょうか?
そこには時間差があるのです。
心に気づくためには時間差を活用しなければいけないともいえるでしょう。
では、日常の中でどうやって時間差を作ればいいでしょうか?
その一つの方法はやはり言葉だと思うのです。
実際にこの記事も時間差をもって書かれています。最初に書こうとしたのは6月初め。そこから二か月近く寝かせていました。
先日もう一度書いてみよう読み返していると、頭の中のもう一人の自分が問いかけます。
「この記事が言いたいこと、それは何?」
その問いにやっとこさ答えて記事は完成しました。
言葉は時間を超えます。
そして、言葉を残す最適なツールの一つが日記でしょう。
たとえば昔の日記を読み返してみます。
そこに書いてある内容は今の自分と少しずれています。
ずれはがあなたの心をぼんやりと照らします。
忙しい中で目を向けられず、複雑であるがゆえに後回しにされ、確かではないがゆえに重視されにくい。
しかし、私たちの中心にあるはずのもの。
無意識という言葉があるように、自分の中には自分の把握できていない部分があります。
そんな心に目を向けるために、未来の自分へ言葉を残してみましょう。
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